父から聞いた話 (山の中に落ちた飛行機) 3
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 発見当日の情況はだいたい以下のとおりです。朝早く小倉の集落を出発した父、叔父達は、午前中に現場と思われる地域に到着し、散開して探し始めました。やがて隣町にある東洋紡績の工場の鳴らす昼のサイレンがはるか遠くに聞こえるころ、同行者の一人がついに探し当てました。それは大滝山の頂上がまじかに見える冷沢から続く尾根付近に、機首を下に突き立てる様に墜落していました。その墜ち方からして、飛行機は北から南へ向かって飛行していた模様です。ともあれ一行はさっそく、機体の尾部にロープをかけて機体を引き倒し(乱暴な…)、コクピットからは取り外しの出来る航空時計や落下傘、更に主翼に付いているタイヤをはずし、担いで下山したとのことです。それにしてもやることが乱暴というか無法というか…。何となく、南方の原住民の行動を彷佛しないでもないが… まあ父、叔父等に替わって弁解すると、当時は本当に物のない時代で、そんなことも平気で横行していたということ。それから山に住む人はとかく、山にあるもの、もしくは山に落ちたものは自分達の物であるという観念が昔から存在していたということです。…えェ弁解になってませんか、まあ南方だろうと小倉だろうと原住民には変わらない訳だし… さらに、持ち帰った遺品などは、全て当局に没収されてしまったそうなので、父達にしてみれば骨折り損だったわけです。
 ちなみに主脚のタイヤをはずすとき、片方は簡単にはずれたけれど、もう片方がどうしてもはずれず、オレオの部分からタガネなどでたたき切ったところ、主脚内の油圧でオレオから先が空にスッポーンと飛び上がったそうです。(油圧恐るべし…)それから、風防のガラスをこするといいにおいがしたそうです。その話を聞いていた母が「そうそう、飛行機のガラスはこするといいにおいがしたねえ」とまるで自分も従軍経験でもあったかのような口吻で肯定していました。私は知らなかったのですが、当時の航空機の風防はガラスではなくなんらかの合成樹脂で出来ていたようで、プラスチックの出現が日本ではてっきり戦後だと思っていた私には驚きでした。もっともこの話はどこまでが本当でどこからがデタラメなのかはわかりませんが*。(後にあらためてその話を聞いたら、材質はセルロイドだったそうです。しかし、セルロイドが風防に使われていたのかなあ…)
 「たらの芽(山菜)がもうかなり伸びてたから5月も終わり頃だったかなあ…。」ポツリとつぶやく父の一言に、晩春の小倉の山を落下傘やタイヤを背負って意気揚々と下山する父や叔父の姿が、60年の時を越えてまぶたに浮かぶような気がしました。
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