昭和13年。12試艦戦(後の零式艦戦)の要求性能論争をきっかけに、海軍部内では戦闘機とはどうあるべきかという論議が興った。この時代航空機は機体、エンジン、運用方法ともに長足の進歩を遂げ、特に航空先進の地ヨーロッパに於いては、単機による格闘戦から編隊行動による一撃離脱にその戦法、機体開発が主流となりつつあった。『格闘こそ戦闘機の本義』とする軽戦派とヨーロッパ流重戦派に海軍部内でも意見が別れる中、中国大陸で戦闘中の第12航空隊から戦訓に基づいた意見具申、「今次事変の経験に鑑み試作戦闘機に対する要求性能に関する所見」というものが送られてきた。これはおおまかに艦上戦闘機と陸上戦闘機に別けて開発すべきとした上で、陸上戦闘機は操縦性能、航続距離を犠牲にしてでも、仮想敵機を凌駕するスピード、そして将来主要都市を目的とした爆撃は高度1万メートル以上からなされると予想した上で、高度性能を重視すべしと結んでいる。
奇しくもこの年、アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは航空機の兵力強化をはかり、この機をのがさずと戦略爆撃論者の陸軍航空隊司令官ヘンリー・H・アーノルド少将は、1934年以来陸軍部内で研究を進めてきた超長距離爆撃機の開発を陸軍省に提案、1 939年12月認可された。これが後のB-29『スーパーフォートレス』となる。
12空の戦訓から導かれた「今次事変の経験に鑑み〜」はまさに正鵠を射ていたといえる。米陸軍がB-29開発をスタートした1939年(昭和14年)9月、日本海軍は1 4試局戦として三菱重工一社特命で発注した。後の海軍局地戦闘機『雷電』の開発が始まったのである。
★雷電開発への軌跡